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 昭和54年3月12日  朝の御理解


御理解 第4節  「此方金光大神あって天地金乃神のおかげを受けられるようになった此方金光大神あって神は世に出たのである神からも氏子からも両方の恩人は此方金光大神である金光大神の言う事に背かぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折りには天地金乃神と言うに及ばぬ金光大神助けて呉れと言へばおかげを授けてやる」 


 まさかの折と、まさかでない時は天地金乃神様は、いるわけですよね。お唱えを申し上げる時には、まず金光大神のお名を唱える。生神金光大神、天地金乃神様と、ま、お唱え申し上げますけど、これはどこまでも金光大神様のお取次を頂かなければならないから金光大神を先にお唱えするんですよね。そして、おかげは天地金乃神様から頂くのです。金光大神から頂くのじゃないわけ、ね。
 天地金乃神様が下さらなければ、でけん。そのお取次ぎをして下さる、なら、その金光大神が、も、これ以上のことはなかろうと思われる程しに、その天地金乃神様の御信頼を受けておられた。神の恩人とまでも、おっしゃっておられるところから、そういうふうに思わせてもらいます。
そこで天地金乃神とお唱えしなくっても金光大神助けてくれ、と言へばおかげを授けてやる、とおっしゃる。いわゆる天地金乃神様と金光大神の一つの一体観、実を言うたら一体観とは言えないんですけどねぇ。ま、大きく天地金乃神様との、つながりをもっている。それは人間が幸せになる、という意味あいにおいての金光大神であり天地金乃神様である。
 天地ということは、まだまだ、それこそ金光大神でも御承知ではなかったろう、という世界があるのはあるけれども、ま、人間の幸福、幸せには、さほど、つながるものではない、ね。ここで申します天の心、地の心と言っても私が言う天の心、地の心と言うのは人間が幸せになると言う利点、と申しましょうか、に於ての天の心であり地の心なんです、ね。それこそ天地の事は人間の眼をもて、知りて知り難きものだ、とおっしゃるように、その知り難きことの方がどの位たくさん大きいかわからんのですけれども、私共が幸せになっていくための、天の心であり、地の心であり、それを、ま、結集すると土の心という事になるのです、ね。そういう信心の稽古をお互い、日々させて頂いておるわけであります。そこから生まれてくる体験、成程、神様じゃなぁ、成程金光大神と言う方は素晴らしい、天地の親神様の御信頼を受けられた方であるなあ、という事を段々感じます。
 私は今朝から、ま、面白い夢と言うか不思議なお夢を見せて頂いた。私、昨日おそうにテレビで山田五十鈴が出ておる、途中からでしたから女ばっかりの、しかも名女優と言われる人達ばっかりの出ておる映画でしたが、それを見とったか知れませんけれども、その京都ことばなんですよね。皆使われるのが何とか言う、いわゆる京都に、ぽんと町と言うところがありますね。置き屋さんのある町です。
そこの出ばっかりの人達らしいんですよ。それが、ま、京都弁でいろいろ話しをしておる。それだったか知らんけど、その雰囲気がそんな雰囲気なんです。そして私が、ま、私がその娘なんです。女なんです。そして、そこにおるのも、やっぱり娘さなんですけども、その娘さんと言うのが末永先生の妹さんということなんです。なら、その、どういうことの話しの問答か、と言うと可愛いい可愛いい。その私の方が京都弁を使って話してるんですよ。それで私の昨日の、あゝいう、いろんな場面をですね。皆も、その人が知ってる、と言うわけなんですよ。まあ、私だけしか知らない私だけの世界を、その人がのぞいておったんだろうか、と言うわけなんです。そして私がね、まあうれしい、と言うて女の言葉を使いながら喜んでおるところなんです、ね
 例えば、本当に私の心を、たち割って見せたいごとあると、いったような時があるし、また、言いますよね。よく、だから例えば信心させて頂く者は
    口に真を語りつつ、心に真のなきこと
と戒められておりますから、むしろ心の中の方が大事なんだ。信心とは見えるところより見えないところの方が大事なんだ。その見えないところ、だから自分で自分の心が拝みたいような時には、そういう時なんだ、ね。
先日、槇の今度の大会テーマを、ということでしたから神様にお願いさして頂きましたら「人を祈る」ということを頂きました、ね。だからこれは槇にとっては大変むつかしいことでしたから人を祈る、という事があれなら人を大切にと言うふうに変えてもいいよ、と、ま、申しました事でしたけれども、この、人を祈るということは自分の好きな人だけを祈る、というと言うのじゃない。人全部を祈る。ある場合は仇役の人があるかも知れん。私のことを悪口、言っておるかも知れん。私を、もう疑いに疑ってる人があるかも知れん、ね。そういう人達の事でも祈らずにはおられない心、それが、人を祈るということ、ね。難儀な人だけを祈るのじゃない、ね。自分の係わりあいのある人のすべてを祈る、というのです。
 世界総氏子、身上安全と言ったような祈りは、そのもっとも大きなものだ、と私は思うです、ね。
だから、私があなたとのことをこんなに祈ってますよ、と。
 昨日大分の奥の方の、あの人は酒井さんが参って見えて、いろいろお届けのあった後に、今あちらは病院は何とか、と言いよった、ね。あの先生は武田先生・武田先生、この頃参って来ないのだが、どうしてるかな、と、もう会うたんびに、もう合楽に参る、合楽に参ると言いよんなさいます。も、最近は、も、素晴らしい神様のおかげと思わにゃおれない、という程に、それは素晴らしいおかげを頂いとるんですよ。そして、その、先生、あなた合楽はどう、と。それがこの頃お参りせにゃお参りせにゃと思いよったけども今度お参りしたら、おこられるかもわからん、と思うて怖くなった、と、こう言うわけなんです、ね。
 この先生なんかは初めて、もう、やんがて70ぐらいなられるんではないだろうか、あの先生は。
永年医者としておられて医者という仕事は人を助けることなんだけれども、とても自分が助ける、とは思われない。これは何者かの働きによるもの、としか思われないような事にいつも直面すり、と言うので、も、いろんな神様やら仏様の研究をしたわけなんです。そして合楽に、ある事でおかげ頂いた時にです。それこそ先生の言葉を借りると、ね、いわゆる。
 私の心の中に描いておった。まぼろしの人に、初めてあった、と言う。いつか研修会の時に発表してましたよね。私をまぼろしの人と表現されるごとありがたい、と思う。もう、永年かかってご子息が医大を出たけども医者になれないわけ、国家試験が通らん、そのことがはじまりでした。
 おかげを頂いてその若先生も今年、いや去年ですね。試験が通りました。それで今、ある病院に実習に行っとられるから帰ってこられたら、ま、自分があの思うような信心も出来る、と言うて楽しんでおられるのですけれども、その先生の事を、話しが出ましたから私が朝晩、先生のことは一生懸命、こうやってお祈りをしているんだよ、と。だからそういう、その、たまがるような、おかげを頂いてるんだよ、と。ま、言わんばかりの、ま、そういう風に話しがなったんです。毎日こうして一生懸命お願いしてあるんだからね。そりゃ、おかげ頂くはずだよ。そうでしょう、でなかったら、あんなおかげは頂けませんよ、と言うて酒井さんが言われる。それは、も、本当に言葉に言われん程おかげを頂いておる、ね。自分もフシギだ・フシギだと会うたんびに言ってます、ね。
 合楽に参らな・参らなと言いよったところが、あんまり御無礼しとったもんだから、この頃参ったらおこられはせんだろうか、怖い、と、こう言うておられる。そんな事はないから参っておいで、と
まあ、そう言うといて下さい、と申しました事でしたけれども、ね。なら私が、例へばそこに、こうやって、あんたの事をお願いしておるよ、と言う事は私の心が、やっぱし、わかってもらいたい、といったようなものが何かそこにあったんですよね。私がその夢の中です、ね。私の言うならば。
 私一人でおる時の様子を、みんな知っておる。それで私がその喜んでおるのは、はあ私が本当に私がこういう心で皆の事を思うたり考えたりしておる事を皆なに見せたい、といったようなものが、やっぱ、どこかにあるとでしょう。だからもう私が思っておるその思いというものは、言うならば軽々しい思いだな、と。誰にわかってもらう事はいらん。もうとにかく“私の心の中に咲く花は、それこそ弥陀より外に知る人ぞなし”と言うような心の状態であればです、ね。私と神様が楽しみ合っておれば、それで、よいのである、ね。それは言うなら私の仇役の人でも私の悪口を言うておる人の事でも、ま、事実、私は、あん奴が、という風には思いません。やっぱ祈らずにはおられません。いわゆる人を祈るのです。そういう時に私は、我と我心が拝める時じゃないだろうかと思うんです、ね。
 私は今日、そのお夢を頂いてから、こちらに退ってからでした。ほんに末永先生の妹ち言うことは、どういうこつやったじゃろうか、とこう思ったんです。今、あのう男兄弟は何人もありますけれども女の姉妹は一人しかないです。今むつやに行っておるのが末永先生の妹なんです。その名前が香世子さんと言うんです。その香世子と言うのは香世の世が、ね。世界の世が書いてあるです。だから香世子(かぜこ)とも、呼べるわけです。ははぁ、かぜこさんじゃったばいな、と私が思っているところです、ね。かぜなら、どこへでも入っていけるです。そして、その、かぜ子さんがですね。末永先生の妹と言っとるけれども末永先生の妹の風態じゃないんです。もう、それこそ観音様の娘時代じゃろ、といったような感じなんです。私もその自分でですね。菩薩様とはこういう姿じゃろ、というような姿をしてるんです。言うならば仏様と仏様、神様と神様との話し合いと、いったような感じなんです。それも可愛らしい可愛らしい。京都弁で話しているのです、ね。そして、その菩薩様が思いよることです。
 私の言うなら影の姿をこのひとが見てくれておって、はあ、も、あんなところを見られては私は残念とか恥ずかしかった。じゃなくて、ね。もう、それを見られたことがうれしい、と言って、まあ、うれしいと言うて私が喜びよるところじゃった、ね。ですから、ここでもし御信者さん方が私の心を、もしのぞいたらです。わぁ、親先生と私を拝むにちがいはない。もう親先生が言われることならば、と敬服するに違いない。だから見せてやりたい、と言うようなものが、ね。
 私の心に、どこかにあるわけ、これが、まだこれからの私の信心に課せられるものであろう、と思うんですけれども、ね。もうそれこそ誰に見せようとて、というものではない。もう神様と私だけの交流そういう時を私は一体感というふうに言うのじゃないか、とこう思うです。神様と私がもう一体に、なっておる時なんだ。私の喜びの心、言うなら私が我と我心が拝みたいような時、もう、これを誰に見せろ、とて、でなくて誰に見せんでもよい。神様と私がわかっておる世界、ね。御大師さまのお言葉じゃないですけども。
 “空海の心の中に咲く花は弥陀より外に知る人ぞなし”というような心の状態が神様と合楽し合ってる時であり、交流し合ってる時である。もうその喜びにひたっておればよいのである。 
 そういう私は信心を神との一体感、金光大神と天地金乃神の一体感というのは、そういうことではなかろうか。どこを切っても喜びだけしか出らん、と言うのが生神金光大神の境地と言われる。そういう境地が天地金乃神と交流しておる。その交流と言うても、なら人間が幸せになる一つのルートのようなものであって、まだ天地と言うなら、まだまだそこんところを私は、ここんところに、まさかの折りには、と言っておられる。いつもかつもと言うのじゃない。まさかの折りには天地金乃神と言うにおよばん。金光大神、助けてくれば、とおっしゃっとられる。
 ここでも皆さんが申します。もう本当に、まさかの時には親先生の方が早い。おかげも、また早い、言うならば私と金光大神、私と天地金乃神が言うならば一体感になっておる時、いわゆる親先生という、それで助かるという事じゃなかろうか、と言うて、なら、いつも親先生ということではいけない、ね。親先生のお取次ぎを頂いて金光大神様であり天地金乃神様である、ということに、ま、なるわけです。 信ずる者は蔭と日向の心をもつな、と、ね。言うならば目に見えるところより目にみえないところを、と目に見えないところを大切にする。私は、そういう心がです。私共の心行、家業の行の中に、はっきり出てこないと信心の有難さ、というものはわからないと思う。昨日、ある教会からお手紙を頂いた。 親先生が言われる、ね。家業の行、心行、その心行といい家業の行と言い、家業の行と心行は、どうちがうのでしょうか。
 私の親教会である大変偉い先生が先日見えられて、あんたんところは大変めぐりが深い、だからお初穂によって、お徳を受ける心がけをせよ、と言われた、ということはしっかりお供えをさしてもろうて徳を積め、とこう言われた。
 合楽の先生は心行だよ、家業の行だよ、とこう言われる。その辺のところを教えて頂きたい、というような手紙がまいっております。皆さんどう思われますか。
 この月次祭の時の教話に私が、あのう「かつを風味の本だし女房」とか言うテレビでやってるね。あれを頂いてから皆さんに聞いて頂いたんですけれども、言うならば身をけずり心をけずり、ということを申しましたね。かつを節はいわゆる、かつをと喜び。心をけずる事によって信心の喜びがその喜びとその形をけずる、身をけずると言う、ね。だから身をけずり心をけずりする。これが一番よい味わい。信心の味わいと言うなら、この味わいをなぜ身をけずる事が有難いか、心をけずる事がなぜ有難くなるか、と。
 私共の、ま、言うなら生きていく上にどうでも必要なもの、ね。食べものも着物も、ね。またはお金なんかも、それこそ命のように、と言われる人がある程しだから、言わばもうそれは命だ、と。金は命だ、物は命だ、という事になる。その物やら金やらをけずって供える。奉るのですから、これはやっぱり、お徳になる、ね。けれども、おかげは頂かなければならん。お徳を受けなければならんから、する、のじゃなくて、身をけずり心をけずりする、ということは、そうせずにはおられないからそうするんだとね。だからその心をけずり、身をけずると、いうことは一つになる。一体にならなければだめだ。
 その味わいが信心の味わいで一番素晴らしい、というような説明をしながら月次祭の時には聞いて頂いたんですよね。だから皆さんがお賽銭を奉ることも、お初穂をなさるでも、それは命をみなさんがけずっておられる程しに素晴らしいことなんです、ね。それに心をけずっての喜びとが一緒になる時に味わいがあるのです。ね。だから百円けずるよりも千円けずった方が、ありがたいということになるわけです。だからそれも私は嘘ではない。けども合楽で言われる心行、家業の行が伴うての、それでなからなければいけない、ということを私の愛子の同期の先生でしたから愛子に言いもたせてやりました。そして、家業の行と言うのは、家業と言うのは、なりはい、とある。家業とは、なりはい、の事です、ね。だからその家業の行を言うと、心行と何か区別のつかんような、あるけども家業の行、なりはい、そのものを行とするんだと言う意味の事をつけ加えてある。なりはい、そのもの、だからお百姓さんはお百姓さん、商売人は商売人、その行をなさして頂いておることが即、行なのだ。そこで、その行を、行たらしめるために、なら、こういう行き方があるよ、と言うわけなんです。
 昨日稲垣さんがお届けをされました。今すぐ近所に何か有名なラーメン屋さんが出来とる。そこで、ま、ひまな時間をそこで、ま、お手伝いに行っておられる。もう大変繁盛する店だそうですが、もう、まいりまして、いつもたまがることは、も、自分の仕事、自分のする事だけはするけども、他のことは誰もしてがない。もう残飯の桶なんかも、こう散らかしてある。もう汚いものは、そのまま、もう、お便所なんかもそうですから、も、自分の御用は自分の御用とさせて頂きながら、お便所の掃除は私一人で承っております。トイレットペーパーでも合楽風に、こうやって折っております。残飯の器でも、きれいに洗って、こうやって整頓させて頂きます。するとそこからフシギに家業の行としての有難さが、わいてくる。私はそれを聞きながら、ね。これだ、と思ったんです、ね。商売人が商売しておる事が行だろうけども、これは信心のある者でなからなきゃ、でけない程しのそこに奉仕、と言うか行があるんだ。 その行をさせてもらう時に家業の行が生きてくるんだ。というふうに私は昨日感じました、ね。 家業の行、家業。そして言うならば心行、いわゆる神様との交流する。そこに神様との一体観というようなものが生まれてくるわけなんです、ね。そのルートをたどって、おかげが流れてくるわけなんですね。今日、私は一番最後のところの、ね。まさかの時には天地金乃神と言うにはおよばん。金光大神助けてくれ、と言うふうに言へば、おかげを授けてやる、と教えられる、その言葉のところを、ね。
 言うなら金光大神がいかに天地金乃神と一体になっておられたか。一体になっておられる、と言うても天地そのもの全部と一体になっておられるのではない。そのところを、まさか、というふうに言っておられる、ね。んなら親先生と例へば言うところにです。おかげが早いというのは私と金光大神、天地金乃神と一つノルートが、ね。一つの一体感によって、なされておる時、それは私の心の中に我ながら我心を拝みたいような、うれしい時、ね。そういう時が天地金乃神、金光大神と一体になっておる時ではなかろうか。お互いの心の中においてもしかり、ね。神の心を心とする。親先生の思いがわったら、親先生の思いが、わかったら、あゝこれが親先生の思いであろうか、と言うことにつながる、ね。
 私共の心の中も、いよいよ吟味してみて、あゝ、こんな汚ないことを思っておる。こんな浅ましい事を考えておる、ね。それこそ心で殺すが重い罪、とおっしゃるが心で殺したり心で傷つけたりするような心が自分の心にある、と言う。その心を私はとっちめていく。そういう心を改めてのぞいていく。
 そういう精進が私は信心だ。言うならば、いよいよもって心をけずる事になりますから喜びが約束される。その上に身にけずる。言うならば、〓〓〓〓と言うならば、かつを出しの風味とか味わいが何とも言えん味わいであるように信心させて頂く者の味わい、喜びと言うことは、そういうところにつきるのではなかろうか、と思います。   「どうぞ」